今月のひとこと 2020年5月2日
立石義雄さんを偲んで
立石義雄さんは気遣いが、非常にできる方で、我々にまで気を使っていただいて、逆にこちらがその気遣いにこちらが気を使ってしまいます。 この気遣いは、気遣いの不得手な私は非常に役に立ちました。 また、全身からのオーラがすごい人で、一緒にいると風圧を感じますが、プライベートで一緒に居ると、ふっとオーラが消える時があって、この時は普通の好々爺になってしまいます。 会議などであまり気に入らないことが、あると顔が紅潮して、だんだん赤鬼のようになってきて、なかなか迫力もあって、怖いもので、立石さんが怒っているぞと、末席でささやいていたものです。
立石さんはビジネスマンとしては、バブル崩壊で志半ばだったと思いますが、その後の会議所会頭は、天性のはまり役で、立石さんが居ないと京都は動かないというところまでありました。 その会頭職を辞された直後に、このような事態になり、しかし人との交流に重きを置いておられた立石さんにとって、コロナ感染はいわば戦場に置いて流れ弾に当たっての戦死ということもでき、80歳と先代に倣うとまだ20年は活躍できる場面ですが、ある意味で本望ではなかったかと思います。
私は元々サラリーマンになるつもりはなくて、しかし会社組織を見ておきたかったので、当時の東のソニー、西の立石電機と言われた、立石電機に入社しました。 僭越にも腰掛のつもりだったので、3年で退社すると公言していましたが、そのころにはオイルショックで独立など論外で、現在のようなベンチャー支援施策も全くありませんでした。 当時に立ち上がったベンチャーで、生き残っているのはほとんどありませんし、残っていても何処かに吸収されてしまっています。
景気低迷の中、辞めるに辞められず、研究所なので予算が付かないと、することもなく、体調も崩したので、そのままズルズルと在籍していましたが、自分で主導したプロジェクトが成功したし、そのうちに管理職も見えてきたので、とりあえず管理職になってからとしましたが、さらに面白くなって、結局は定年はおろか、定年以降もオムロンに関連していたのは、自分でも驚きです。 最後の段階で立石さんと一緒に仕事ができ、行政の一端を垣間見たことも自分の財産になりました。
立石さんを最初に意識に登ったのはコンピュータービジネスをやってた時に、専務時代の立石さんが、学生がたむろしているゴミだらけの開発現場に赴かれたということを聞いて、雲の上の人だと思っていましたが、非常にフットワークの軽い方だなという印象を受けました。 その直後に弱冠47歳で社長に就任されて、社長は最低10年を続けるが、その10年をどういうビジネスを展開していくのかという超長期事業計画が作られました。
これを G’90(ゴールデンナインティーズ)と言い、部品の A 領域、システムの B 領域、サービス 領域、ヒューマンルネッサンスの D 領域という、垂直統合のビジネスコンセプトでありました。 驚くことに、この超長期事業計画は本屋で堂々と売っていて、他の大手企業では超長期計画を立てる時のテキストになったということも聞いてます。
このタイミングで、ちょうど我々は管理職になる前後でしたので、我々はいわば「義雄チルドレン」という側面もあり、G’90 についても、喧々諤々議論をしました。 ただ今になって残念だったのは 「C 領域」がインターネットサービスということに気が付かず、学校とかレストランとがのビジネスに進出して、バブル崩壊で撤退を余儀なくされました。 それまでずっとコンピューターのインターネットは技術的にも知見はあり、技術者も多くいたのですが、あまりに身近にあったためか、インターネットのWebが認知されたのが1993年のバブル崩壊後であったためか、せっかくの材料が目の前にあるにも関わらず、その重要性に気が付かなかったのは残念で、立石さんには、この点で申し訳なく思っています。
当時は専門職制度というのがあり、全社で5‐6人、役員の数より少ないと言うのが売り文句で、最初は専門職だけだったのですが、後に組織管理職も兼務したのでスーパー管理職になりました。 これが定期的に経営トップにプレゼンテーションをする役割があって、その時に初めて立石さんと突っ込んだ議論をしたような記憶があります。
阪神大震災の直後に壁に大きな裂け目が出来た大阪事業所で立石さんにプレゼンテーションをしました。 その中で「EC というのは何か」いう質問を受けたことをよく覚えています。 その後は、海外の特にアメリカの世界戦略イーティングなどで議論させていただ来ましたが、その後は没交渉になっておりました。
定年を前にして、オムロンですることもなくなったので退職することを考えて、6月まで待てば賞与がもらえるので、その後のほうが良いかなとかぼんやり考えていて、とりあえず東京から京都に社宅を引っ越さないといけないので、京都駅前の不動産仲介業者から出てきたところに、秘書室から電話があり、京都府の外郭団体へ出向で行ってくれと言われました。 普通なら断るところですが、立石さんの指示と言うことでなので、立石さんには大変世話になったと言う気持ちがあったので、お役に立つのなら、と引き受けました。 結局、正式辞令を2通ももらったことになります。
その京都府の外郭団体で何をするかと言うと 京都の中小企業育成をやるためのプラットフォームを作ってくれ、と言うことでしたが、制約条件は時期を含めて何もなく、全くの白紙からのスタートになりました。 お金もなく、これは大きいですが立石さんのバックアップしかありません。 しかも、立石さんが絡んでいるので、やるなら失敗は許されないとか、行政からは拙速に話を進めるなとか、いろいろプレッシャーを受けましたが、スポーツ選手の感覚で、プレッシャーがないと力が湧いてこない感じでした。 ある時の講演で、聞いていた学生らしいのから、「あなたは鈍感ですね」と言われて、最初は戸惑いましたが、最高の誉め言葉だと思うようになりました。
まず立石さんが理事長の出向先の外郭団体での立場を固めないといけないのですが、役職は理事で役員クラスですが、部下も予算も無い、ないないづくしの中で流石の私も途方に暮れました。 周りは3か月持たないと噂していたらしく、愚痴を言うなと言うのが私のモットーでしたが、初めて愚痴を言いました。 人も時間もお金で買えると言うのが、私の主義でしたので、まず必要なのはお金、。 幸い隣のデスクが総務部長だったので、いろいろ聞きましたが、まともな情報はもらえませんでいたが、ヒントを得て、高額のリース料の桁を下げて、お金を引き出し、社内の報告システムを作り上げました。 人に関しては、合併した元の組織どおりの縦割りだったのですが、横串の委員会があって、これを活用しました。 最初の会合で出席があるのか、物凄く心配でしたが、ほとんど出席で、皆さん非常に協力的でした。 こう言うことをやりながら組織内の立場を固めて、それと並行してプラットフォーム立ち上げの構想を練りました。
二転三転してNPOという話もあったのですが、NPOの運営には自信がなく、結果的にオール京都の有力企業の出資による株式会社作る事になりました。 行政特有の協議会とか委員会を同時に作らないといけないのですが、違う世界でみんな新鮮でした。 これは私には出来ないので、外郭団体の元気のよい人をもらって、その人が手際よく作り上げてしまいました。 行政の仕事のやり方を垣間見ました。
確か最初のキックオフミーティングだったと思いますが、最前列の隣に座った立石さんが、誰に言うともなく、ぼそっと「矢は放たれた」と言われたことにビックリ。 意外に立石さんも緊張されているのだと感じてプレッシャーを受けるとともに、やる気が湧いてきました。
その後は、京都商工会議所の副会頭をされていた会議所の会頭を含むトップ会議に説明して了解を得るために、2人で参加しました。 大要を立石さんが話し、その後は担当から説明しますと言うことで、全部立石さんが説明すると思っていたので大慌てで説明を終えました。 立石さんは日頃に似合わず、緊張されていたと感じましたので、余計にこっちも緊張しました。
会社設立前のシンポジュウムをやることになり、キーノートスピーカーとして多摩大学の田坂広志先生にお願いしてたのですが、その後の原発事故で、菅政権の原子力関連の参与に就任され、先生が原子力の第一人者であるとは、全く知りませんでした。 その後もいろんな分野に関してTV出演もされており、安い講演料で、わざわざ京都まで来ていただいて、恐縮の限りです。 この時は、先生のお相手を立石さんにお願いしてしまったので、先生とはあまり話せず、残念なことをしました。
会社設立は簡単で登記所に書類を持っていけば良いとタカをくくっていましたが、実際には綱渡りの連続でした。 設立のもとになる会社法は、よく読んでみると、個人が法人を立ち上げるのをベースにしているらしく、法人が法人を設立する際には、いろいろ面倒なところが多くありました。 法人設立には発起設立と募集設立がありますが、この時点では何社が出資に応じてくれるのか分からなかったので、募集設立しかありません。
会社設立の時点はちょうど5月連休にかかっていて、また会社法が大幅に変更されて、この連休中に登記所のシステムを一新することになっていました。 面倒な時期ではあったのですが、結果的にはこれが吉と出ました。 旧会社法では、募集設立するときは、出資金を定めて、その金額に達したら募集締め切りで、それ以上の出資は断らないといけない取り決めでした。 しかし、今回の場合は、寄付に限りなく近い出資なので、断り切れず、もし断るなら募集代表者である立石さんが断らないといけないことになり、これは出来ない話です。
そこで新会社法をよく読むと、出資額をオーバーしても良いと読めました。 連休明けに早速登記を行いましたが、最初の結果は拒否。 もはやこれまでかと、諦めかけたのですが、諦めきれずに、再度登記をすると、これが受理されました。 登記官の新会社法の理解不足でした。 ここが最初の大きなヤマだったと思います。
これ以外に、27社の出資を同時に集めるのは大変で、会社によっては代表者の決済だけで良いところもあれば、取締役会の承認が必要なところもあり、入金の時期が見通せませんでした。 これに失敗すると募集のやり直しになり、2回目をやるエネルギーは残っていませんでしたので必達でした。
募集の期限を2つ作って、公式の期限と登記所に届けた期限に1週間の差をつけてありました。 最後の1社はこの1週間に入金され、目論見がまともに当たりました。 他には、出資の記事が新聞の1面に出たことで、半年かかると言われていた決済がすぐにおりたところもありました。 銀行の5%ルールやその他の制約もクリアして、資本政策としては満額回答だったと自負しています。
要所要所の会社には、立石さんから直接連絡が入っていて、訪問すると何も聞かずに手続きを進めていただきました。 あるところでは、処理が終わってから、担当の方から、ところでこれは何をするプロジェクトですが? と聞かれてしまうこともありました。 何かあると「俺が連絡しようか?」と言われるので、まだそんな段階ではありませんと、止めることが多かったように思います。
その後は会社の運用に入ったのですが、折に触れ事業経過を立石さんに報告しに行ったのですが、その時も身を乗り出して、ここはどうかね、ここはどうなっているのか、と質問が飛び出てきて、小さなビジネスサイズでしたが、往年の社長時代を思わせる対応でした。 社員の飲み会にも、休肝日にも関わらず、参加いただいたこともあり、社員との懇親をしていただきました。
私の個人的な理由で早めに引退することになったのですが、単独で送別会をしていただき、私の話を辛抱強く聞いて頂き、感激いたしました。 その後、2‐3回お会いした後は、没交渉になっていましたが、関西経済連合の副会長も歴任され、知事選挙や市長選挙にまで関りをもたれて、文字通り京都代表として活躍され、京都経済センターの設立にも尽力され、さらに懸案であった京都商工会議所の会頭を、引き継がれた直後に残念ながらこういう事になってしましました。
改めて、お悔やみを申し上げるとともに、ご冥福をお祈りいたします。合掌。